
あなたの家に“庭訓”はありますか?
幼少期だからこそ、一生覚えていられる“教え”を
食事の後、ちょっと休みたいな、横になりたいなと思ったとき、いつもこの言葉を思い出します。
食べてすぐ寝ると牛になる
幼い頃は、母にこれを言われてもただ笑っていたものですが、大人になり子の親となった今では、いろいろなことを教えてくれる示唆に富んだ言葉だったことに気づきます。
本来は『食卓で寝転ぶのは行儀の悪いこと』を教える言葉なのでしょうが、ゆっくり休んでいたくても、食後の後片付けはさっさと済ませてしまった方があとあと楽だとか、あるいは後片付けをしているひとに気をつかうのが家族としてのやさしさだとか、そんな教えも含まれているのかな、と思ったりするのです。
反対にこんな言葉もあります。
親が死んでも食休み
これは行儀やマナーを教えるのではなく、健康のために好ましい食習慣を教える言葉です。同様の教えに、こんな言葉もあります。
腹八分目に医者いらず
もう少し食べたい!と思うとき、この言葉を思い出して箸を置いたりしてはいませんか?
こんなふうに、子どもの頃の教えというものは生涯にわたって心の中に生き続け、戒めてくれるものです。
このような教訓や知恵、戒めといった家庭での教えを『庭訓』(ていきん)と言いますが、思い出してみると実に多くのさまざまな庭訓を、簡潔で印象的な言葉で教わりながら、私たちは育てられてきました。
寒い日、家の中でごろごろしていると「子どもは風の子、外に行って遊んでおいで」と言われたものです。外遊びは子どもの運動能力や体力を伸ばし、冒険心を育み体験を増やし、何かを発見する喜びや感動にふれる機会となり、友だちと遊べば社会性やルールを守ることの学びとなって、子どもの健全な成長を大きく助けます。それだけの医学的、教育学的根拠をこの言葉は、たった数文字で子どもに納得させ実行させてしまいます。
庭訓は法律のような厳密なルールではありません。しかしこれを軽んじると、道を誤ってしまうこともあります。
例えば一時相次いで明らかになった一流企業の不正。あるいはいじめによる子どもの自殺が起こると判で押したように「いじめはなかった」「いじめと自殺との因果関係は確認できない」という声明を発表する学校。そうした報道を見るとき、こんな言葉を教わってこなかったのだろうかと思うのです。
嘘をつくとエンマ様に舌を抜かれる
嘘つきは泥棒のはじまり いつもお天道さまが見ている
結局嘘は暴かれ、隠したつもりでも悪い行いは明らかになるもの。一見荒唐無稽に見えて、実は昔から伝わる言葉には、真理が宿っているのです。
あるいはまた、子どもの頃こんな言葉もよく聞かされたものです。
よそはよそ、うちはうち
昔は各家庭ごとに違った価値観を持っていて、個性のように尊重されていました。子どもを塾へ通わせる家、通わせない家。学力レベルの高い学校を目指す家、そうでない家。家庭独自の考え方がそれぞれにあって『勝ち組・負け組』などというたったひとつの価値観で、まるで善悪を断じるように生き方までを断じることはありませんでした。よそはよそ、うちはうちーー。そう言いながら分相応な暮らしを、将来を肯定的に捉え、その中で幸せになればいいと、みんなおおらかに考えていたように思います。
庭訓は家庭独自の価値観に基づいて、家族みんなが、生涯を通じどんな人間として生きてゆくかを示す指針となるものです。いま、家庭において庭訓が昔ほど教えられなくなっていることが、モラルの崩壊や価値観の狭量化を招いてはいないでしょうか。
あなたの家庭では子どもたちに『わが家の庭訓』をしっかり教えていますか?
『キッズファミリー・ぐぅちょきぱぁ』131号掲載