
知っていますか?『躾』という字は、漢字ではありません。
日本で生まれた国字です。躾という概念はよその国から輸入されたものではなく、私たちの国に昔からあったものなのです。 美しさを身につけると書く『躾』 あなたは美しい振る舞いができていますか?子どもたちに“美しさ”を教えていますか?
ラッシュ時の駅においても、他人を押しのけて電車に乗り込もうとしたり、そのために言い争いを始めたりといったことは、私たちはしません。大きな災害に際し、救援物資の配給を受ける場合であっても私たちは皆、落ち着いて整然と列をなします。自分の欲求を満たすためにひとを押しのけ先を争うようなことは、醜いことだと私たちは認識しています。
海外のとある人気観光スポットで、現地の旅行ガイドをしている人からこんな話を聞かされたことがあります。天候などの自然条件や他の参加者の健康上の理由などでその日のプランの変更が余儀なくされた場合、外国人ゲストを説得するのは容易ではないそうです。その点日本人は全員がすんなり理解を示し、変更になったプランでも充分喜んでくれるというのです。そのガイドはアメリカ人でしたが、日本人のそうした特性は他の国の人には見られない素晴らしい美徳だと言っていました。
なぜ私たち日本人はみんな、誰に指示されるでもなく自然にそのようなことができるのでしょう。
そうした独特の美徳を育んだ条件はいくつかあるのでしょうが、「躾」という国字の存在が明らかな事実をひとつ物語っています。 それは躾という家庭教育が、日本において連綿と行われてきたということです。だからこそ私たちのこころには、自分を律し美しく振る舞うことが何より大切であるという価値観が育まれ、自然とそのように行動できるようになってきたのでしょう。
外国の人の目にはいまだ美しく見えるのかもしれませんが、それでもかつての日本人に比べれば、現代の日本人からは美しさ、気高さといったものはずいぶん失われてしまったのではないかと危機感を抱かされることがよくあります。そんな光景に、最近よく出くわすようになった気がするのです。
たとえば電車の中で、入り口脇に門番のように立ちはだかり、乗客が通行する方に向かってスマホを突き出している人が今、なんと多いことでしょう。通路に立つ人への配慮を忘れ、だらしない座り方で足を投げ出す人のなんと多いことでしょうか。お年寄りや妊婦、松葉杖をついた人に席を譲る光景は、滅多に目にすることができません。電車の中で平然とお菓子やパンを食べる若者や、缶ビールや缶酎ハイを飲む仕事帰りの人たちもよく見かけます。朝の通勤電車の中で化粧をする女性を目にするようになったのも近年のことです。
インターネット上でそのような行動を批判する意見があがると、必ず擁護する意見が出てきますが、その人たちはこんなことを言います。
他人の迷惑にならなければいいじゃないか。自由なんだから。
公共の場でみっともない姿を晒したとしても、自由の大切さに比べたらどうということはないという主張です。
考えてみてください。このような『自由』は果たして本当に、それほど大切なものでしょうか。みっともない姿を晒してしまわないように身を律することは、本当にそれほど大切なことではないのでしょうか。
日本語の『自由』という言葉は、本来『勝手気ままであること』を意味し、良くない意味で使われていました。約700年前に書かれた随筆『徒然草』の中にも「あの人は誰にも従わずいつも自由で、曲者である」という表現の文章があります。
明治になって海外から多くの思想書が流入すると、当時の知識人たちは、それまで日本の概念にはなかったLibertyという単語の日本語訳に苦しみました。どの語をあててもその意を正確に言い表しているとはいえないと、福沢諭吉も書いています。そして苦しんだ挙句、『自由』という言葉があてられたのです。
戦後になると、教育改革と称してそれまでの日本的な躾教育は否定され、民主主義とともに利己的ともいえる自由主義が教えられるようになりました。自由は尊いものだ!と徹底的に教え込まれたのです。
その過程で私たちは、自由という言葉の持つ別の意味 ――利己的な、勝手気ままなことをする自由――についても同時に尊いものであると勘違いしてしまったのではないでしょうか。
幼稚園や保育園の建設という社会的に意義のある事業を、近所にできたらうるさいからという利己的な理由で反対する姿勢に、美しさはあるでしょうか。子どもはみんな地域の子と捉え、どの子も同じように愛し、慈しみ、教え、たしなめ、与えたかつての日本人の美しさはどこへいったのでしょう。
「日本死ね」などという酷い言葉を流行語大賞と称して顕彰するこころに、美しさはあるでしょうか。
子どもの自殺が報じられるたび、自殺といじめとの因果関係は認められないと、どの学校もどの教育委員会も、必ず同様に発表します。その姿には自身の姿を真摯に省み、最後まで責任を全うしようとする潔さは微塵もなく、醜いばかりです。
私たちは美しく身を処す『躾』の国に生まれました。多くの外国の人々が賞賛してくれるように、まだかろうじてその美徳は残っています。そのこころをすべて失ってしまう前に、かつての日本人が美徳として連綿と伝えてきた躾を、私たちはもう一度取り戻す必要があるのではないでしょうか。
『キッズファミリー・ぐぅちょきぱぁ』129号掲載