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家庭教育の大切さを訴えた福澤諭吉

有名な『学問のススメ』をはじめ、福澤諭吉は数多くの著書をあらわしました。その様々な著書の中で福澤は、たびたび家庭教育の大切さを説いています。明治9年には『家庭叢談』という雑誌も刊行しますが、内容はそのタイトル通り、家族団らんの話題に適した記事を集めたものでした。日本において『家庭』という言葉が使われるようになったのも、この雑誌が刊行されて以降のことだといわれています。

一家は習慣の学校なり。

​父母は習慣の教師なり。

​(教育の事)

福澤諭吉 

幕末から明治にかけて活躍した啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創始者。

明治政府からの度重なる出仕要請を断り、野に在って教育支援と言論をもって国を導いた。

家の美風その箇条は様々なる中にも、

最も大切なるは家族団欒、

​相互にかくすことなき一事なり。

​(新女大学)

福澤がもっとも大切だとした家庭教育とは、読み書き算盤など学習科目を教えることではなく、物事の正しい見方・考え方や、美しいふるまいや所作を父母が家庭で実践して見せることで、子どもたちが自然とそれを身に着けてゆく、ということでした。家族団らんという言葉も入っていますが、家族がみんな仲良く、お互いに隠し事など一切持たずに打ち明けあうだけの関係を築き、それが家の“美風”=良い雰囲気となっているような家庭を築くことが肝要だと福澤は訴えました。

人間社会は家内(※)の集まりたるものなり、その悪事の元素は早く家内にありて存するものなり。家内は社会の学校なり、社会にありて専制を働く者は、この学校の卒業生なり。故に曰く、社会の有様を改革せんと欲せば、先ずその学校を改革すべきなり。
(教育の事)※家内=家庭のこと

家庭が変われば社会が変わる――私たちはこの理念に基づいて取り組みを行ってきましたが、120年前に、すでに福澤諭吉が同じことを言っていたことを知りました。​当時の専制政治を批判するための文言が入ってはいますが、家内(家庭)が社会の学校なのだから、社会を改革するにはまずその学校である家庭を改革しなければならないと福澤は訴えています。

少し長くはなりますが、福沢諭吉の書いたものをここに紹介しておこうと思います。

 家庭習慣の教えを論ず

                   

 人間の腹より生まれ出でたるものは、犬にもあらずまた豕(ぶた)にもあらず、取りも直さず人間なり。

 いやしくも人間と名の附く動物なれば、犬豕(けんし)

等の畜類とは自ずから区別なかるべからず。

 世人が毎度いう通りに、まさしく人は万物の霊にして、生まれ落ちし始めより、種類も違い、階級にも斯(か)くまで区別のあることなれば、その仕事にもまた区別なかるべからず。

 人に恵まれたる物を食らいて腹を太くし、あるいは駆けまわり、あるいは噛み合いて疲るれば乃(すなわ)ち眠る。これ犬豕が世を渡るの有様にして、いかにも簡易なりというべし。されども人間が世に居て務むべきの仕事は、斯(か)く簡易なるものにあらず、随分数多くして入り込みたるものなり。

 大略これを区別すれば、第一に一身を大切にして健康を保つこと。第二に活計の道、渡世の法を求めて衣食住に不自由なく生涯を安全に送ること。第三に子供を養育して一人前の男女となし、二代目の世の中にては、その子の父母となるに差支なきように仕込むことなり。第四に人々相集まりて一国一社会を成し、互いに公利を謀り共益を起こし、力の及ぶだけを尽してその社会の安全幸福を求むること。

 この四ヶ条の仕事をよくして十分に快楽を覚ゆるは論を俟(ま)たずといえども、今また別に求むべきの快楽あり。その快楽とは何ぞや。

 月見なり、花見なり、音楽舞踏なり、そのほか総て世の中の妨げとならざる娯しみ事は、いずれも皆心身の活力を引立つるために甚だ緊要のものなれば、仕事の暇あらば折を以て求むべきことなり。これを第五の仕事とすべし。

 右の五ヶ条は、いやしくも人間と名の附く動物にして社会の一部分を務むるものは、必ずともに行うべき仕事なり。この仕事をさえ充分に成し得れば、人間社会の一人たるに恥ずることなかるべし。

 然りといえども今の文明の有様にては、充分を希望するはとても六ヶ(むつか)しきことなれば、必ずしも充分にあらずとも、なるべきだけ充分に近づくことの出来るよう、精々(せいぜい)注意せざるべからず。

 余輩が毎(つね)に勧むる所の教育とは、即ちこの有様に近づき得るの力を強くするの道にほかならざるなり。

 故に一口に教育と呼び做(な)せども、その領分はなかなか広きものにて、ただに読み書きを教うるのみを以て教育とは申し難し。

 読み書きの如きはただ教育の一部分なるのみ。

 実に教育の箇条は、前号にも述べたる如く極めて多端なりといえども、早くいえば、人々が天然自然に稟(う)け得たる能力を発達して、人間急務の仕事を仕遂げ得るの力を強くすることなり。

 その天稟(てんぴん)の能力なるものは、あたかも土の中に埋れる種の如く、早晩いつか萌芽を出いだすの性質は天然自然に備えたるものなり。

 されども能(よ)くその萌芽を出して立派に生長すると否(し)からざるとは、単に手入れの行届くと行届かざるとに依(よ)るなり。即ち培養(ていれ)の厚薄良否に依るというも可なり。

 いわゆる教育なるものは則(すなわ)ち能力の培養にして、人始めて生まれ落ちしより成人に及ぶまで、父母の言行によって養われ、あるいは学校の教授によって導かれ、あるいは世の有様に誘(いざな)われ、世俗の空気に暴(さら)されて、それ相応に萌芽を出し生長を遂(と)ぐるものなれば、その出来不出来は、その培養たる教育の良否によって定まることなり。

 就中(なかんずく)幼少の時、見習い聞き覚えて習慣となりたることは、深く染み込めて容易に矯(た)め直しの出来ぬものなり。さればこそ習慣は第二の天性を成すといい、幼稚の性質は百歳までともいう程のことにて、真(まこと)に人の賢不肖(けんふしょう)は、父母家庭の教育次第なりというも可なり。家庭の教育、謹(つつし)むべきなり。

 

 然(しか)るに今、この大切なる仕事を引受けたる世間の父母を見るに、かつて子を家庭に教育するの道を稽古したることなく、甚だしきは家庭教育の大切なることだに知らずして甚だ容易なるものと心得、毎(つね)に心の向き次第、その時その時の出任せにて所置(しょち)するもの多きが如し。

 今その最も普通なる実例の一、二を示さんに、子供が誤って溝中(みぞなか)に落込み着物を汚すことあれば、厳しくその子を叱ることあり。もしまた誤って柱に行き当り額(ひたい)に瘤(こぶ)を出して泣き出すことあれば、これを叱らずしてかえって過ちを柱に帰し、柱を打ち叩きて子供を慰むることあり。

 さてこの二つの場合において、子供の方にてはいずれも自身の誤りなれば頓(とん)と区別はなきことなれども、一には叱られ一には慰めらるるとはそもそも何故(なにゆえ)   なるか。

 畢竟(ひっきょう)親の方にては格別深き考えもあらず、ただ一時の情意に発したるものなるべし。

 その第一例なる衣裳を汚したる方は、何ほどか母に面倒を掛けあるいは損害を蒙(こうむ)らしむることあれば、憤怒(ふんぬ)の情に堪えかねて前後の考えもなく覚えず知らず叱り附くることならん。

 また第二の方は、さまで面倒もなく損害もなき故、何となく子供の痛みを憐れみ、かつは泣声の喧(やかまし)きを厭(いと)い、これを避けんがために過ちを柱に帰して暫(しばら)くこれを慰むることならんといえども、父母のすることなすことは、善きも悪あしきも皆一々子供の手本となり教えとなることなれば、縦令(たとい)父母には深き考えなきにもせよ、よくよくその係り合いを尋ぬれば、一は怒りの情に堪えきらざる手本になり、一は誤りを他に被(かぶ)せて自ら省みず、むやみに復讐の気合いを教え込むものにて、至極有り難からぬ教育なり。

 

 そのほか叱るべきことあるも父母の気向(きむき)次第にて、機嫌の善き時なればかえってこれを賞(ほ)め、機嫌悪あしければあるいはこれを叱る等の不都合は甚だ尠(すくな)からず。

 全体これらの父母たるものが、教育といえばただ字を教え、読み書きの稽古をのみするものと心得、その事をさえ程能(ほどよ)く教え込むときは立派な人間になるべしと思い、自身の挙動(ふるまい)にはさほど心を用いざるものの如し。

 

 されども少しく考え見るときは、身の挙動にて教うることは書を読みて教うるよりも深く心の底に染み込むものにて、かえって大切なる教育なれば、自身の所業は決して等閑(なおざり)にすべからず。

 つまる処、子供とて何時(いつ)までも子供にあらず、直じきに一人前の男女となり、世の中の一部分を働くべき人間となるべきものなれば、事の大小軽重を問わず、人間必要の習慣を成すに益(えき)あるか妨げあるかを考え合わせて、然る後に手を下すべきのみ。

 然らずんば、人間の腹より出でたる犬豕(けんし)を生ずること必定(ひつじょう)なり。斯(か)かる化物(ばけもの)は街道に連れ出して見世物となすには至極面白かるべけれども、世の中のためには甚だ困りものなり。

 教育の事

 一人の教育と一国の教育とは自(おの)ずから区別なかるべからず。一人の教育とは、親たる者が我が子を教うることなり。一国の教育とは、有志有力にして世の中の事を心配する人物が、世間一般の有様を察して教育の大意方向を定め、以て普(あまね)く後進の少年を導くことなり。
 

 父母の職分は、子を生んでこれに衣食を与うるのみにては、未だその半ばをも尽したるものにあらず。これを生み、これを養い、これを教えて一人前の男女となし、二代目の世において世間有用の人物たるべき用意をなし、老少交代してこそ、始めて人の父母たるの名義に恥ずることなきを得(う)べきなり。
 

 故に子を教うるがためには労を憚(はばか)るべからず、財を愛(いと)しむべからず。よくその子の性質を察して、これを教えこれを導き、人力の及ぶ所だけは心身の発生を助けて、その天稟(てんぴん)に備えたる働きの頂上に達せしめざるべからず。概していえば父母の子を教育するの目的は、その子をして天下第一流の人物、第一流の学者たらしめんとするにあるべきなり。
 

 ある人云(いわ)く、父母の至情、誰(たれ)かその子の上達を好まざる者あらんや、その人物たらんを欲し、その学者たらんを願い、終(つい)に事実において然(しか)らざるは、父母のこれを欲せざるにあらず、他に千種万状の事情ありて、これに妨げらるればなり、故に子を教育するの一事については、只管(ひたすら)父母の無情を咎(とが)むべからずと。この説あるいは然らん。禽獣(きんじゅう)なおその子を愛す、いわんや人類においてをや。天下の父母は必ずその子を愛してその上達を願うの至情あるべしといえども、今日世上一般の事跡に顕(あら)われたる実際を見れば、子を取扱うの無情なること鬼の如く蛇の如く、これを鬼父蛇母と称するも妨げなき者甚(はなは)だ多し。あるいはその鬼たり蛇たるの際にも、自(おの)ずから父母の至情を存するといわんか、有情を以て無情の事を行えば、余輩は結局その情のある所を知らざるなり。
 

 教うるよりも習いという諺(ことわざ)あり。けだし習慣の力は教授の力よりも強大なるものなりとの趣意ならん。子生まれて家にあり、その日夜見習う所のものは、父母の行状(ぎょうじょう)と一般の家風よりほかならず。一家の風は父母の心を以て成るものなれば、子供の習慣は全く父母の一心に依頼するものというて可なり。故に一家は習慣の学校なり、父母は習慣の教師なり。而(しこう)してこの習慣の学校は、教授の学校よりも更に有力にして、実効を奏すること極めて切実なるものなり。今この教師たる父母が、子供と共に一家内に眠食して、果たして恥ずるものなきか。余輩これを保証すること能(あた)わず。前夜の酒宴、深更に及びて、今朝の眠り、八時を過ぎ、床の内より子供を呼び起こして学校に行くを促すも、子供はその深切(しんせつ)に感ずることなかるべし。妓楼(ぎろう)酒店の帰りにいささかの土産を携えて子供を悦(よろこ)ばしめんとするも、子供はその至情に感ずるよりも、かえって土産の出処を内心に穿鑿(せんさく)することあるべし。この他なお細かに吟味せば、蓄妾淫奔(ちくしょういんぽん)・遊冶放蕩(ゆうやほうとう)、口にいい紙に記すに忍びざるの事情あらん。この一家の醜体を現に子供に示して、明らかにこれに傚(なら)えと口に唱えざるも、その実は無辜(むこ)の小児を勧めて醜体に導くものなり。これを譬(たと)えば、毒物を以て直(じか)にこれを口に喰(く)らわしめずして、その毒を瓦斯(ガス)に製し空気に混じて吸入せしむるが如し。これを無情といわざるを得んや。鬼蛇の名称差支(さしつかえ)なかるべし。


 また一種の主人あり。これを公務家と名づく。甚だしき遊蕩(ゆうとう)の沙汰は聞かれざれども、とかく物事の美大を悦び、衣服を美にし、器什(きじゅう)を飾り、出(いず)るに車馬あり、居(お)るに美宅あり。世間の交際を重んずるの名を以て、附合(つきあい)の機に乗ずれば一擲千金(いってきせんきん)もまた愛(お)しまず。官用にもせよ商用にもせよ、すべて戸外公共の事に忙しくして家内を顧みるに遑(いとま)あらず。外には活溌(かっぱつ)にして内には懶惰(らんだ)、台所の有様を知らず、玄関の事情を知らず、子供の何を喰らい何を着るを知らず、家族召使の何を楽しみ何を苦しむを知らず。早朝に家を出て夜に入らざれば帰らず。あるいは夜分に外出することあり、不意に旅行することあり。主人は客の如く、家は旅宿の如く、かつて家族団欒(だんらん)の楽しみを共にしたることなし。用向きの繁劇(はんげき)なるがために、三日父子の間に言葉を交えざるは珍しきことにあらず。たまたまその言を聞けば、遽(にわか)に子供の挙動を皮相(ひそう)してこれを叱咤(しった)するに過ぎず。然るに主人の口吻(こうふん)は常に家内安全を主とし質素正直を旨とし、その説教を聞けばすこぶる愚ならずして味あるが如くなれども、最大有力の御用向きかまたは用向きなるものに逢えば、平生の説教も忽(たちま)ち勢力を失い、銭を費やすも勤めなり、車馬に乗るも勤めなり、家内に病人あるも勤めの身なればこれを捨てて出勤せざるを得ず、終日の来客も随分家内の煩雑なれども、勤めの家なれば止(や)むことを得ず、酒を飲むも勤めの身、不養生も勤めの身、なお甚だしきは、偽を行い虚を言うも勤めの箇条に入ることあり。この家の趣を概していえば、戸外の公務に最大の権力を占められて、家内の事務はその力を伸ぶるを得ず。外を以て内を制し、公を以て私を束縛するものというべし。
 この悪風の弊害は、決して一家の内に止(とど)まるものにあらず。その波及する所、最も広くしてかつ大なり。ここにその一を述べん。かの政談家の常に患(うれ)える所は、結局民権退縮・専制流行の一箇条にあり。いかにも人間社会の一大悪事にして、これを救わんとするの議論は誠に貴ぶべしといえども、未だよくこの悪事の原因を求め尽したる者にあらざるが如し。そもそも一国の政府にもせよ、また会社にもせよ、その処置に専制の行わるるは何ぞや。必ずしも一人の君主または頭取が独り暴威を逞(たくま)しうして、悉皆(しっかい)他の人民を窘(くる)しむるがためにあらず。衆庶(しゅうしょ)の力を集めてこれを政府となしまたは会社と名づけ、その集まりたる勢力を以て各個人の権を束縛し、以てその自由を妨ぐるものなり。この勢力を名づけて政府の御威光または会社の力といい、この勢力を以て行う所の事を名づけて政府の事務または会社の事務という。即ち公務なり。この公務を取扱う人を名づけて政府の官員または会社の役員といい、この官員の理不尽に威張るものを名づけて暴政府といい、役員の理不尽に威張るものを暴会社という。即ち民権の退縮して専制の流行することなり。

 

 今前条に示したる家内に返りてこれを論ぜん。この家内の有様は外を以て内を制し、公を以て私を束縛するものなり。主人の常言に家内安全を主とし質素正直を旨とするはすこぶる有力なる教えにして、然(しか)もこの教えは、世間道徳の門においても常に喋々(ちょうちょう)して人心に浸潤したるものなれば、これを一般の国教というも妨げあることなし。然るに今この家においては斯(かか)る盛大なる国教もその力を伸ぶること能わずして、戸外の公務なるものに逢えば忽(たちま)ちその鋒(ほこさき)を挫(くじ)き、質素倹約も顧みるに遑(いとま)あらず、飲酒不養生も論ずるに余地なく、一家内の安全は挙げてこれを公務に捧げ、遂には人間最大一の心得たる真実正直の旨をも欠くことなきにあらず。この家の内に養われてこの事情を目撃する子供にして、果たして何らの習慣を成すべきや。家内安全を保護する道徳の教えも、貴重は則(すなわ)ち貴重なれども、更に貴重なる公務には叶(かな)わぬものなりとて、既に公務に対して卑屈の習慣を養成し、次いで年齢に及びて人間社会の一人となり、戸外公共の事務を取扱うの身分となれば、生来の習慣忽(たちま)ち活動し、公は以て私を束縛すべきものなりとて憚(はばか)る所なきは必然の勢いならずや。
 

 今の政談家は今日世間に専制の流行するを察し、その原因を今日に求めて今日にこれを救わんと欲するが如くなれども、けだしその眼力よく外に達してかえって内を見ざるものというべし。人間社会は家内の集まりたるものなり、その悪事の元素は早く家内にありて存するものなり。家内は社会の学校なり、社会にありて専制を働く者は、この学校の卒業生なり。故に曰(いわ)く、社会の有様を改革せんと欲せば、先ずその学校を改革すべきなり。
 

 前条に記したる鬼蛇父母なり、また公務家なり、いやしくも上等社会に列して銭に不自由なき人なれば、その子に学問を教えんと欲せざる者なし。而(しこう)してそのこれを教うるの方法如何(いかん)を聞けば、学校に寄宿せしめたりとていかにも安心せるものの如し。案ずるにこの輩は、学問は数を学び文字を知ることと心得て、知字はただ学問の一部分たるの旨を忘れたることならん。知らずや、習慣の力は教授の力よりも大なるを。知らずや、子供は家にありて早くその習慣を成すものなるを。知らずや、父母の教えは学校教師の教えよりも深切(しんせつ)なるを。余輩断じていわん、家に財あり、父母に才学あらば、十歳前後の子を今の学校に入るるべからず、またこれを他人に託すべからず、仮令(たと)いあるいは学校に入れ他人に託するも、全くこれを放ちて父母教育の関係を絶つべからずと。然りといえども実際において人の家には種々様々の事情ありて、必ずしもこの言の如く行わるべきものにあらず。余輩もまた敢えてこれを強(し)いんとするにあらず。ただ今の世に士君子というべき人が、その子を学校に入れたる趣意を述べて口実に設くれども、かつてその趣意の立たざるもの多きを疑うてこれを咎(とが)むるのみ。
 

 その口実に云(いわ)く、内外多用なるが故に子を教うるの暇(いとま)なしと。内外の用とは何事を指していうか。官の用か、商売の用か。その用の価(あたい)は子を養教するの用に比較して綿密に軽重を量りたるか。甚だ疑うべし。
 

 また口実に云く、戸外の用も内実は好む所にあらざれども、この用に従事せざれば銭を得ず、銭なければ家を支うるを得ず、子供を棄(す)てて学校に入れたるは止(や)むを得ざるの事情なりと。この言はやや人情に近きが如くなれども、元来その家とはいかなる家か。これを支えんとして求むる所の銭の高は、正しく生活の需用に適して余りなきものか。あるいは千円の歳入を六百円に減じ、質素に家を支えて兼ねて余暇を取り、子を教うるの機会はなきや。この機会を得んとしてかつて試みたることありや。甚だ疑うべし。
 

 また口実に云(いわ)く、家に余財なきにあらず、身に余暇なきにあらざれども、如何(いかん)せん、才学を以て人を教うるに足るなし、子を学校に託するは身に才なきがためなりと。この口実も一応もっともなるに聞こゆれども、到底(とうてい)許すべからざるの遁辞(とんじ)のみ。身に覚えたる才学なしというか。けだし多く文字を知らざることならん。されども子供の教育に文字を教うるはただその一部分にして、知字のほかに眠食の教えあり、坐作(ざさ)の教えあり、運動の教えあり、養生の教えあり。これらの教育には、父母を除くほかに更に良き教師を求めんとするも容易に得難きものにして、殊に子供の教育においては、十中の七、八に居(お)るべき大切なる箇条なり。然るに今ただ文字を知らざるの一箇条を以て、他の大切なる箇条をも挙げてこれを他人に託するとは、果たして何の心ぞや。試みに思え、古来一丁字(いっていじ)を知らざる母が、よくその子を育して遂に天下の一大家となしたる者あるにあらずや。この母氏の教育の法を知らんと欲せば、歴史を開きて比々(ひひ)見るべきなり。
 

 右の如く口実を設けて遁(のが)れんとする者は、なおかつ愛すべし。滔々(とうとう)たる天下、この口実遁辞(とんじ)を用いる者さえもなき世の中なれ、憐れむべきにあらずや。畢竟(ひっきょう)子を学校に入るる者の内心を探りてその真実を丸出しにすれば、自分にて子供を教育しこれに注意するは面倒なりというに過ぎず。一月七、八円の学費を給し既に学校に入るれば、これを放ちて棄てたるが如く、その子の何を学ぶを知らず、その行状(ぎょうじょう)のいかなるを知らず、餅は餅屋、酒は酒屋の例を引き、病気に医者あり、教育に教師ありとて、七、八円の金を以て父母の代人を買入れ、己(おの)が荷物を人に負わせて、本人は得々として無上の安楽世界なるが如し。たまたま他人の知らせによってその子の不身持(ふみもち)などの様子を聞けば、これを手元に呼びて厳しく叱るの一法あるのみ。この趣を見れば、学校はあたかも不用の子供を投棄する場所の如し。あるいは口調をよくして「学校はいらぬ子供のすてどころ」といわばなお面白からん。斯(かか)る有様にては、仮令(たと)いその子を天下第一流の人物、第一流の学者たらしめんと欲するの至情あるも、人にいわれぬ至情にして、おそらくは事実には行われ難からん。枯木に花を求むるとはこの事なり。
 

 そもそも前にもいえる如く、余輩の所見とて必ずしも天下の父母をして悉皆(しっかい)自らその子を教えしめんとするにあらず。ただ企望(きぼう)する所は、仮令(たと)いその子を学校に入るるにもせよ、あるいは自宅にて教うるにもせよ、家の都合次第、今時の勢いにては才学に欠点なき父母も少なからん、あるいは家に教師を雇うべき財ある者も少なからんことなれば、やはり一時の姑息(こそく)にて、よき学校を撰(えら)びてこれに入るるよりほかに名案もなかるべしといえども、いずれにも今少しく父母の心身を労し、今少しく家庭の教育を貴きものと思うてこれに注意し、教育なるものの地位を高めて、人事の最大箇条中にあらしめんと欲するのみ。
 

 今その不注意なる証を見んとならば、世間の事実において明らかに知るべきものあり。世の士君子、あるいは官途に就(つ)く者あり、あるいは商売に従事する者あり、あるいは旅行するものあり、あるいは転宅するものあり。その際に当たり、何らの箇条を枚挙して進退を決するや。世間よく子を教うるの余暇を得んがためにとて、月給の高き官を辞したる者あるを聞かず。商売の景気を探らんために奔走する者は多けれども、子を育するの良法を求めんためにとて、百里の路を往来し、十円の金を費やしたる者あるを聞かず。旅費の多き旅行なれば、千里の路も即日の支度にて出立すれども、子を育するに不便利なりとて、一夕(いっせき)の思案を費やして進退を考えたる者あるを聞かず。家を移すに豆腐屋と酒屋の遠近をば念を入れて吟味し、あるいは近来の流行にて空気の良否など少しく詮索(せんさく)する様子なれども、肺に呼吸する空気を論ずるを知りて、子供の心に呼吸する風俗の空気を論ずる者あるを聞かず。世の中には宗旨を信心して未来を祈る者あり。その目的は死後に極楽に往生していわゆる「パラダイス」の幸福を享(う)けんとの趣意ならん。深謀遠慮というべし。されども不良の子に窘(くる)しめらるるの苦痛は、地獄の呵嘖(かしゃく)よりも苦しくして、然(しか)も生前現在の身を以てこの呵嘖に当たらざるを得ず。余輩敢(あ)えて人の信心を妨ぐるにはあらざれども、それ程にまで深謀遠慮あらば、今少しくその謀を浅くしその慮を近くして、目前の子供を教育し、先ず現世の地獄を遁(のが)れて、然る後に未来の極楽をも狙(ねら)いたきものと思うなり。
 

 右は一人の教育を論じたるものなり。即ち上等社会、銭に不自由なき良家の子供を学者仕立てに教育するの心得なれども、広き日本国中に子を教育するために余財を貯え余暇を有する者は幾人もあるべからず。この輩のためを謀(はか)れば、教育の法も上に記すものとは全くその趣を異にせざるを得ず。即ち編首にいえる如く、一人の教育と一国の教育と区別ある所以なり。ただし一国教育の事については他日論ずる所あるべし。

 


底本:「福沢諭吉家族論集」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年6月16日第1刷発行
底本の親本:「福澤諭吉全集 第四巻」岩波書店
   1959(昭和34)年6月1日初版発行
   1970(昭和45)年1月13日再版発行
初出:「福澤文集 巻之一」松口榮造蔵版
   1878(明治11)年1月刊